校友会について

校友会のあゆみ

明治期~

第1回卒業生

大学の前身、関西法律学校が明治22(1889)年に第1回卒業生17人を社会に送り出して以来、年ごとに卒業生を加え、同窓相集うの機運が高まって、明治30(1897)年12月19日、大阪市北区菅原町「相生楼」で恩師の諸先生を迎えて第1回の総会をかねた大懇親会を開催しました。これがそもそも校友会の誕生であり、時に約10年間の卒業生総数は208人で、大阪市北区河内町の興正寺の本堂、庫裡を借りて夜間に授業を行なっていた本学の草創期のことです。

大正期~

初の校友名簿

その後、数次の学制の改革や独立した校舎の移転拡充があって、校運は伸展し、卒業生数も著しく増え、大正4(1915)年、初めて校友名簿を発刊しました。時に卒業生数は1,545人でした。この名簿は在学生名簿と合冊し、学友会の手で発行したもので、この形式による名簿は昭和3(1928)年まで続き、単独で校友名簿が刊行されるようになったのは、昭和4(1929)年からです

千里山学舎

大正9(1920)年、千里山に校地を求めて、従来の夜間専門部のほかに、昼間学部を設置、同11(1922)年には大学令による大学に昇格、名実ともに大学としての地位を確保し、現在の関西大学へと成長する転機をなしたもので、同14(1925)年に法学部、商学部合わせて55人の第1回卒業生を送り出しました。

大学では、大正11年の昇格を機に、「千里山学報」(のち「関西大学学報」と改題)を創刊して、大学のPR活動が活発になるに及んで、校友会活動も促進され、従来の大阪支部のほか、東京、岡山、福岡などの支部が相次いで結成され、昭和5(1930)年発行の校友名簿には東海、神戸、明石、姫路、愛媛など10支部が記録されるに至りました。

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